1. なぜ僕はアメリカに渡ったのか

今から43年前、俺はアメリカに渡った。当時の所持金は20万円そこそこ。円は非常に安く、1ドル220円の時代だった。

「なんでそんな無茶を?」と思うだろう。それには深い理由がある。

話は俺が小学校の頃まで遡る。小学生の頃はひ弱で運動ができず、いじめられっ子だった。進級も出席日数ギリギリで、まさに「弱い=俺」だった。そんな俺が小学5年生のとき盲腸を患い、手術と1週間の入院を経験。その後、自宅療養を経て学校に戻ったとき、何かが変わっていた。しかし、それが何だったのかは今でも思い出せない。

そして小学6年生のときの体力測定。俺にとって一番嫌いなイベントだった。何をやってもビリ、いいところなし。ところが、50m走でまさかの一着。先生に「ストップウォッチが壊れてる」と言われ、別の組で再度走ることに。それでも一着。学校の歴代記録を塗り替えるタイムだったようで、先生は首を傾げていた。

走り幅跳びでも驚異的な記録を出し、結果として学校内トップ3に。前年は最下位だった俺が一躍トップクラスになり、小学校の代表として大阪・堺市の連合運動会に出場することになった。

俺の父も母も運動音痴だったが、父の弟、つまり俺の叔父は大阪の国体選手だった。その叔父が言った。「お前、将来英語を学んでアメリカの学校に行け」——この言葉が、俺のアメリカ行きの発端だった。

それから43年、俺はすっかりアメリカに根を下ろして生活している。この先、アメリカ生活や留学について、いろいろ書いていこうと思う。

2. 1980年12月25日、渡米

正確には1980年のクリスマスの日、俺は大阪・伊丹空港を旅立った。見送りの友人たちは松村和子の「帰ってこいよ」を歌いながら見送ってくれた。伊丹から羽田を経由し、ロサンゼルスへ向かった。

しかし、その前に話しておかなければならない出来事がある。

3. 高校受験の失敗

小学校、中学校と順調だった俺だが、高校受験で大失敗。偏差値的には、トップであった俺が受けた高校すべてに不合格。結局、レベルの低い高校に進学することになった。ほとんど8階建てのビルの上から突き落とされた感じになった

絶望感に打ちひしがれた俺は「もうどうでもいいや」と投げやりな生活を送るように。それでも、勉強しなくても上位3位以内に入れてしまう。やる気はゼロだった。

そんな中、陸上部に所属していたが、そこもレベルが低かった。ある日、大阪の大会で衝撃を受ける。近隣のN高校の顧問に突然呼び出され、往復ビンタを食らった。

「お前、勝てる試合を自分でぶち壊して、他の選手に迷惑をかけてるじゃないか!」

意味が分からず呆然としていると、その先生は「明日、俺の学校に来い。練習を見てやる」と言った。こうして俺は、その先生から陸上の指導を受けることになった。これらが全て人生を変えて行った。

4. 大学進学とアメリカへの興味

高校卒業後、付属の大学に進学。そこでも陸上部に入ったが、相変わらず弱小チーム。個人で練習しながら試合に出たが、勝てずに意欲をなくした。コーチもいない。何もないチームで練習すること自体不思議だった。

そんなとき、親父が「来年の夏休み、アメリカに行ってこい」と言った。当時、日本ではまだ海外旅行が珍しかったが、西海岸ブームが始まりつつあった。雑誌『POPEYE』や『Made in USA』という本が流行し、アメリカが一大ブームになっていた。

俺はこの機会に賭けることにし、学校、クラブ、アルバイトに明け暮れる日々を送った。

5. 初めてのアメリカ旅行

大学2年生(関西では2回生)の夏休み、俺は大阪の旅行会社のツアーでアメリカ西海岸10日間の旅に申し込んだ。

飛行機に乗るのは初めてだった。離陸時の衝撃に感動し、興奮して機内では一睡もできなかった。ロサンゼルス空港に降り立つと、独特の空気——ガソリンの匂いが漂っていた。「これがアメリカか」と実感した。

ツアーではダウンタウンのヒルトンホテルに宿泊。自由行動だったため、まず喉が渇いて自販機で「Root Beer」を購入。ビールかと思いきや、飲んでみるとまるで風邪薬のような味だった。これがアメリカの味って?不思議だった

母から「親類の叔父がいるから会いに行け」と言われていたので、住所を頼りにホテルのフロントで行き方を聞くと、「車がないと無理」と言われた。

そこで俺は一計を案じた。

ホテル前の大通りの中央分離帯に立っていれば、警察が来るのでは?

案の定、10分ほどで警察が来た。英語がわからず、住所を見せると警官は頭を抱え、無線で誰かとやりとり。そして俺をパトカーに乗せて移動。

「留置場に連れて行かれるんじゃ?」と焦る俺。

しかし、着いた先は叔父の家だった。警察官が叔父に何か話すと、叔父はため息混じりに俺を見つめた。

「お前、何しとんねん!」

こっぴどく叱られたが、最終的には呆れ顔で「まあ、無事でよかった」と言ってくれた。

こうして、俺のアメリカ珍道中が始まった。

6. アメリカ珍道中の始まり

その日は無事に終了した。ここから、初めてのアメリカでの珍道中をお届けしよう。

翌朝、早朝に目が覚めた。ホテルを出て、散歩がてら開いていたレストランに入ると、驚くべき光景が広がっていた。その店はカフェテリア形式で、トレーに好きなものを載せて最後に会計を済ませるスタイルだった。しかし、いざキャッシャーで支払いをしようとすると、店員の言葉がまったく理解できない。英語ができないとは思っていたが、ここまでとは……。焦っていると、一人の女性が助けてくれた。

ようやく状況が理解できたのは、その店の公用語が英語ではなくスペイン語だったということ。店員も客もほぼメキシコ人だったのだ。今となっては笑い話だが、当時はすべてが必死だった。

ロサンゼルスのダウンタウンのレストランを後にし、その日は憧れのUCLAへ向かうことにした。ホテルのフロントで「目の前のバスに乗ればサンタモニカ方面に行ける」と教えてもらい、深く考えずに来たバスに乗り込んだ。

バスの車内は異様な雰囲気だった。まさに「人種の坩堝」。大柄なアフリカ系の女性、メキシコからの移民らしき人々、何とも言えない風貌の乗客たち――明らかに普通の観光客ではなかった。そして、ふと考えた。「もしかして、俺も同じように見られてるのか?」

バスの降り方も分からないまま、周囲の動きを観察しながら学んでいたが、しばらくすると目の前の席が空いたので座ることにした。時差ボケもあり、いつの間にか眠りに落ちてしまった。

どれくらい眠っていたのか分からない。「えっ、ここはどこ?」と慌てて「UCLA?」と連呼すると、周囲の人たちがドライバーに向かって「ストップ!」と叫んでくれた。おかげでバスを降りることができたが、どこにいるのかまったく分からない。呆然としていると、通りすがりの人が声をかけてくれた。拙い英語で道を尋ねると、「あそこの信号を左に行け」と教えてくれた。それだけは理解できた。「信じる者は救われる」という言葉を思い出し、その方向に進んでみることにした。

しばらく歩くと、街の雰囲気が変わり、商店が並んでいる場所に出た。道路には「WESTWOOD」の文字。ついに憧れのUCLAの校門前にたどり着いたのだと実感した。今のように携帯電話もデジカメもない時代。写真を撮りたかったが、人に頼む方法も分からず、そのまま構内へ足を踏み入れた。

しばらく歩くと、ひときわ賑わっている場所があった。近づいてみると、そこは日本でいう購買部。UCLAのロゴ入りグッズを販売するショップだった。大勢の学生や観光客がグッズを買い漁っている。俺も買いたい気持ちはあったが、「ミーハーっぽいかな」と思い、何も買わずに店を後にした。

そんな時、大型バスが到着し、ぞろぞろと降りてきたのは日本からの観光ツアーの団体客だった。「うわ、ここで日本人観光客と一緒になるのは嫌だな」と思い、その場を離れて学内を散策することにした。

ちょうど学校は夏休み。キャンパス内は人もまばらで、夏季講習の学生がちらほらいる程度だった。陸上競技場へ向かうと、誰もいなかった。アメリカの陸上シーズンは6月に終わるため、部活動はオフシーズンなのだ。しかし、有名なUCLAの競技場を目の前にし、感無量だった。

構内を散策していると、どこまでが大学なのか分からなくなるほど広大だった。時間を見ると、すでに午後3時を過ぎていた。「そろそろホテルに戻らないと」と思い、バスを降りた場所へ戻ることにした。

その途中、一人のアフリカ系の男性と出会った。不思議な縁を感じたのは、俺の父親が俺の生まれた頃、ナイジェリアに単身赴任していたことを思い出したからだ。勝手に「この人もナイジェリア人かも?」と思い込み、立ち止まって話しかけた。

彼はUCLAに留学している学生で、名前は今では思い出せないが、なぜかとても親切だった。会話を交わすうちに、彼が「アパートに来ないか?」と誘ってくれた。不思議と警戒心はなく、彼について行くことにした。

彼のアパートに入ると、整理整頓された素敵な部屋だった。何人かの留学生とルームシェアしているとのこと。紅茶をご馳走になり、留学に関する貴重な話を聞かせてもらった。

こうして、アメリカでは、思いがけない出会いと体験に満ちたものとなった。

アフリカからの留学生についてさまざまな疑問を抱いた俺は、持っている単語を駆使して精一杯質問を投げかけた。すると、その彼は嫌な顔ひとつせず、丁寧に答えてくれた。俺は感激の連続だった。

留学といえば親の脛をかじるものという印象が強かったが、彼の話は違った。彼の家庭は裕福ではないが普通の家庭であり、海外留学など到底考えられないものだったという。そこで彼は国費留学を狙い、必死に勉強して国から全額援助を受け、アメリカにやって来た。そして、「もらった支援の分以上に勉強して帰国しないと国に申し訳ない」と語った。その言葉を聞いた瞬間、俺はまるで頭を殴られたような衝撃を受けた。なんて自分は恵まれていて、好き放題に生きているんだろう。

帰る時間になり、彼はバス停まで送ってくれた。しかし、俺は行きの時間がそれほどかかった記憶がなかったので、歩いて帰ることにした。これが大きな失敗だった。実は行きのバスで寝ていたため、時間の感覚が麻痺していたのだ。後で分かったことだが、バスで2時間もかかる距離だった。夕暮れのUCLAを後にし、どれだけ歩いてもホテルには着かない。そして、ついに「ここは危ないぞ」というエリアに差し掛かった。焦った俺は、後ろから来たバスに飛び乗った。そこからさらにバスで1時間かかった。もしあのまま歩いていたら、深夜になってもホテルに着けなかったかもしれないし、最悪の場合は命の危険さえあったかもしれない。なんと無謀なことをしたのか。こんなことが叔父に知れたら、また激怒されるだろう。

空腹を抱えたままホテルに戻り、近くのレストランを探したが、ビジネス街ゆえにどこも開いていない。仕方なく、またスペイン語しか通じないカフェテリアで夕食をとることにした。何を食べたのかも分からなかったが、とにかく腹に詰め込み、ホテルで爆睡した。

そんなこんなでアメリカ西海岸を巡る日々だったが、目的は留学先の学校探しだった。ホテルで得た情報によると、ロサンゼルス市が運営する留学生向けの英語学校があるらしい。翌朝、その学校を訪れることにした。

朝目覚めると、「今日はアメリカらしいものを食べるぞ!」と意気込んでホテルを出た。しかし、すでにアメリカ到着から4日が経とうとしていたのに、まともな食事をしていなかった。鏡を見ると、明らかに痩せ細っている自分がいた。

ロスアンジェルス市が経営している 語学学校は、学校はホテルから徒歩30分ほどの場所にあった。到着すると、多くの外国人(俺もその一人だが、なんだか難民のようだった)が列をなしていた。職員にいろいろ質問すると、なんとF-1ビザ(学生ビザ)を発給してくれるとのことだった。すぐに申し込み用紙を4通もらった。なぜ4通もあるのかと尋ねると、「書き損じた時のための予備」とのこと。俺は絶対に書き損じる自信があったのでありがたかった。

この瞬間、俺は「絶対にここに来るぞ」と決意し、日本へ帰国。帰国後すぐに親に「大学を辞めてアメリカに行く」と宣言した。すると、親父は「やっぱりな。お前なら言い出すと思っていたよ」と、まるで見透かしていたかのように答えた。しかし、親父の返事は「NO」だった。「日本の大学すら中退するお前が、海外の学校でやっていけるはずがない。日本の大学を4年間しっかり卒業してから行け」と言われた。妙に説得力のある言葉だった。いつもなら口答えする俺だったが、親父は海外生活の経験者(ナイジェリアで2年、ドイツのボンで1年暮らした)だったので、その言葉には重みがあった。結局、俺は大学を4年間きちんと卒業することを決めた。

7. トラックの運転手をしながらアメリカに書類を送った。

それからというもの、留学資金を貯めるため、朝5時から9時まで大阪中央市場で野菜や果物を運ぶアルバイトをした。当時、中央市場のアルバイトは時給が良く、約1000円ほどもらえていた。1日4時間働けば4000円、月に8万円ほどの収入になった。俺の話を聞いていた友人4人も「俺も大学卒業したらお前とアメリカに行く」と言い出し、仲間が増えていった。俺は気分が高揚し、連日アメリカの話ばかりしていた。服装もアメリカかぶれになっていたと思う。

しかし、大学4年になると、仲間たちは就職活動を始めた。気がつくと、「一緒にアメリカに行く」と言っていたはずの連中は皆、就職説明会に足を運んでいた。「え?なんで?」と俺が聞くと、「やっぱり夢を追い求めたらあかんわ」と、あっさり現実路線へ転向していた。結局、残されたのは俺一人だったが、もともと一人で行くつもりだったので特に気にしなかった。その時 思った やっぱり頼れるのは自分だけ、口ではアメリカが どうのって行っても 踏ん切りつけないやつは結局あかんなって、家がある 後継がないといけないなど 皆色々言い出したしかし、自分が一度決めた夢は絶対追わないとだめって

卒業後、周りが就職する中、俺はアメリカ留学資金を貯めるため、さらに大きく稼ぐ必要があった。そこでトラック運転手のアルバイトを始めた。これがまた過酷だったが、かなりの収入になった。

親は「こいつ、何してるんだ?」という目で見ていたが、特にアルバイトの内容については一切聞いてこなかった。俺は必死で働き、普通免許で乗れる最大サイズの4トントラックを運転し、建築現場へ資材を運搬していた。

ある日、兵庫県芦屋で資材を降ろしていると、通りかかった母親が子供にこう言った。

「勉強しないと、この人みたいになるよ。」

俺は思わず唇を噛みしめた。「俺、別に勉強しなかったわけじゃないし、これから勉強しに行くんだけどな……。」

当時はFAXやEメールもなく、頼れるのは郵便のみ。毎日、自宅の郵便受けを確認するのが日課になった。書類を送ってから6週間後、ついにアメリカから返信が届いた。そこには、ビザ申請に関する詳細な情報と、学校が俺を正式に受け入れたという通知が書かれていた。

喜び勇んで、神戸のアメリカ大使館へパスポートを持ってビザのスタンプをもらいに行った。しかし、そこでこっぴどく言われた。

「留学は簡単じゃない。君のようなフラフラした気持ちじゃ、半年も持たない。」

まさかの"お墨付き"まで貰ってしまい、情けないやら悔しいやら……。

とはいえ、渡米まであと数ヶ月しかない。引き続きトラックの運転手を続けながら、さらにマクドナルドでアルバイトを始めた。アメリカで働くことを考えた時、少しでも現地の仕事を知っておけば役立つかもしれないという、単純な発想だった。

そして、ついに日本を出る日が来た。12月25日、クリスマスの日に出発。

友人たちは「クリスマスじゃなくて"苦しみます"だな」と笑っていたが、そんなことは気にせずアメリカへ向かった。しかし、これが後に大きな誤算になる。

日本ではクリスマスイブがメインイベントで、25日はそこまで特別ではない。しかし、アメリカでは違った。ロサンゼルス空港に迎えに来てくれた母方の叔父は、開口一番「なんで今日なんだ! クリスマスだぞ!」と不機嫌だった。俺は「なんで?」と不思議に思ったが、後から振り返ると、空気が読めなさすぎる自分に呆れるしかなかった。

叔父の家に連れて行ってもらい、日本から持ってきたお土産でなんとか機嫌を取った。しかし、叔父は無情にも「1週間は泊めてやるが、その後は自分でアパートを探せ。ここからじゃ学校に通えない」と通告。俺はこの日から、アパート探しという未知の挑戦をすることになった。

ロサンゼルスで発行されている「羅府新報」を買い、片っ端から安いアパートを探す。そして、ようやく見つけた家具付きアパートを即契約。車はなかったが、バスで通える場所だった。こうしてオリンピックブルバードのアパートを借りたが、家賃は破格な分、決して綺麗ではない。薄暗く、家具は薄汚れ、ベッドはどう見ても使い物にならない。昼間でも暗いこの部屋で、一度も他の入居者に会ったことがない。なんとも不気味なアパートだった。

そんなある日、道端に「古いワーゲン売ります」のサインを見つける。価格は200ドル。これなら買える! そう思い、現金を持って交渉し、180ドルで購入。しかし、この車はエンジンが止まると、押してかけなければならない代物だった。そのため、車を停めるのはいつも坂道。だが、そんな苦労も当時は笑って過ごせた。

8. 語学学校

入学して数週間後、アフガニスタン人の学生が大挙して押し寄せてきた。当時、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、多くの難民が流れ込んでいたのだ。

それだけならまだしも、彼らは風呂に入る習慣がないうえ、羊肉をよく食べるため、体臭が強烈だった。アフガニスタン人以外の学生は皆、鼻をつまむほどの状態。学校にクレームを入れても、「これ以上言うとお前を退学にするぞ」と逆に脅される始末だった。

授業では、彼らはアフガニスタンでも裕福な層だったのか、態度が非常に横柄で、校内でいつも問題を起こしていた。俺は数ヶ月間、真面目に授業を受け、成績も常にトップだった。しかし、ある日とうとう我慢の限界を迎えた。

結果、クラスメイト数名とともに、アフガニスタン人をいじめたという理由で退学処分を受けてしまった。

9. アフガニスタンからの難民たちと、理不尽な退学処分

アフガニスタンからの難民の多くは、英語をほとんど読めず、アルファベットすらままならない人ばかりだった。俺は彼らを責めるつもりはなく、むしろ何か一緒にできることがあればと思っていた。

語学学校では一匹狼だった。他の日本人(数人はいたが)とは全く交流がなかった。だからこそ、アフガニスタンの人たちと文化を学ぼうとしたが、彼らはなかなか心を開かなかった。

そんな中、クラスの他の生徒たちが我慢できずに彼らを冒涜し、それが問題となり、学校側は日本人の生徒たちを退学処分にした。しかし——なぜか俺まで退学になった。俺はただ彼らの隣にいただけだった。むしろ、通訳を介して色々と話しかけていた。しかし、それが「いじめ」とみなされ、通訳の人が学校にそう報告したことで、俺までとばっちりを受けたのだ。まったくの理不尽。しかし、反論する語学力もなく、ただ撃沈するしかなかった。

10. ビザの危機と、新たな学校探し

この日から1ヶ月以内に別の語学学校へ転校手続きをしないと、ビザが失効し、強制帰国になってしまう。焦りながらも新しい学校を見つけ、なんとか転校手続きを済ませることができた。

しかし、問題はまだあった。今のアパートから新しい学校へ通うのは不可能だった。となると、アパートを引っ越さなければならない。だが、契約は1年。ここで契約を破れば、多額の違約金が発生する。

ビザの問題、お金の問題……もうどうにもならない。「神は俺を見放した」などと独り言を言いながら、新しい学校のある地域へ移動することにした。

持ち物はほとんどなく、スーツケース一つだけ。それをほぼ廃車寸前のワーゲンに積み込み、パタパタと音を立てながら移動。友人の紹介で、知り合いの家に間借りさせてもらうことになった。

アパートのことが気になり、もし契約違反で訴えられたらどうしよう……とビクビクしながら数日を過ごす。

11. 衝撃のニュース——元アパートの住人全員逮捕

ある日、普段見ないテレビをなんとなく見ていると、麻薬売買の犯人たちが連行される映像が流れた。その映像に釘付けになった。

——見覚えのある顔。見覚えのある場所。

よく見ると、俺が数日前まで住んでいたアパートだった。

ニュースでは、逃亡したアパートの住人全員が逮捕されたと報じられていた。そして、アパートは黄色のテープで封鎖され、立ち入り禁止になっていた。

「えっ……? 何これ??」

もし俺があのままあのアパートに住んでいたら……間違いなく警察に捕まっていた。さらに最悪なのは、俺の引っ越しが“逃亡”だと思われる可能性があることだった。

「もしかして、俺も麻薬犯の仲間だと思われるんじゃ……?」

最悪の想像が頭をよぎる。もう何もかも嫌になりそうだった。

だが、後になって分かったことだが、アパート側は俺の情報を持っていなかったらしい。警察が押収したのは、麻薬犯たちの情報だけだった。

胸を撫で下ろした瞬間、思わず呟いた。

「天は俺を見放していなかった……。」

12. 新たな語学学校と、日系人のおばあちゃん

新しい語学学校が始まった。前の学校とは違い、生徒のほとんどが欧州からの留学生だった。雰囲気は和やかで、朝8時から昼2時までみっちり授業があった。前の学校よりもずっと充実していた。

そして、今間借りしている家は日系人のお宅だった。家主は当時88歳のご高齢のおばあちゃん。耳が少し遠く、頑固な人だったが、俺の発音をいつも直してくれた。

おばあちゃんは、たどたどしい日本語で昔話をよく聞かせてくれた。俺としては、「英語を学びに来たのに、日本語で会話するのはどうなんだ……」と思いつつも、毎日話し相手になっていた。

こうして、俺の新しい生活が始まった——。しかし、喜ぶのも束の間 このおばあさん 認知症になっていたようで(今から思うと)家の物が盗まれた 英司が勝手に冷蔵庫の物を食べたなど、言われ、毎日が泥棒扱いの日々。そして、英語の発音が悪いと 棒で追いかけられる。なんとも凄まじい日々を送っていた。

TOEFLとGRE の試験においての、最低点獲得 自慢じゃないけど それほど 英語はできなかった。そこから、俺の集中力の発揮、朝日の出とともに起きて、日没まで毎日英語漬けの生活, 3ヶ月目一杯詰め込んで 入学においてのポイント獲得

大学院に願書出して、合格を得た4校

UCLA Kentucky UTEP (Texas ElPaso ) Wyoming

各校を見学にいき、最終的に ワイオミングにしたのは 授業料がやすく なんとかなりそうだと勝手に決めたからで 後ほどまた泣くことになる。毎度毎度同じことのくり返し。

話は少し前後するが、住んでいた地区にある高校には、400mのトラックがあった。 当時はまだ土のトラックだったが、俺としては嬉しく、学校を終えると毎日そこに行って走ったりしていた。そんなとき、初老の男性が歩いてきて言葉をかけてくれた。(のちに大きな人物だと知って驚くことになる)

その人が話してくれる話を聞いていると、どれも壮大な話ばかりで、俺としては「そんなことあるわけないやろう」と半信半疑で聞いていた。俺の悪いところで、自分のボーダーラインを超えると疑う癖があり、しかし聞いていると、その人は陸上のコーチだと言う。そして、憧れのアメリカで陸上のコーチと出会った経験があるらしい。聞こえはいいが、相手が誰かわからず、話を聞くだけでは理解できなかった。

それでも、その人はなぜか俺に優しく、「俺の学校に来い」と誘ってくれた。学校名を聞くと、Glendale Community College という地元の学校だった。しかし、その学校についての情報は全くなく、「じゃあ、明日午後に行く」と約束した。(そのときは半信半疑で、何が起こるのかすらわからなかった)

家に帰ると、家人のおばあちゃんが「遅かったな、勉強しろ」とまるで親のように叱責してきた。そして、大学の話をすると、陸上のことなど知らないおばあちゃんは「俺がそこの学生になる」と思い込んでしまい、色々な騒動が起こった。(ここではその部分を省略する)

その初老の男性はJohn Tansley。アメリカでは有名なコーチで、混成競技ではアメリカナンバーワンのコーチだった。(これは後に知ることになる)

ジョンのいる大学を訪問すると、普通の土のグラウンドで、特に変哲のない学校だった。ちょうど学生が基礎練習をしていて、それを見ていると、日本の練習とは大きく違い、どこまで真剣にやっているのか分からないように見えた。しかし、いざ走ると速い。

グラウンドで学生に色々質問してみると、普通に日本記録級の選手がいた。この大学は決して有名校ではなく、短期大学だ。「え、何なんこれ? えー?」としか言葉が出なかった。当時、日本の400mは決して速くなかったが、ここの学生は簡単に日本記録レベルで走る。「どうなっとんじゃ?」と思いながら、アメリカが陸上大国であることを実感した瞬間だった。

そこから俺は、早く大学院に行くために勉強せねばと自分を追い込むようになった。そして、その日から2ヶ月間、(この大学の陸上部の練習時間以外)寝る間も惜しんで英語を何でもかんでも丸暗記した。やった甲斐もあり、目標とする点数を達成した。

いくつかの大学院に願書を送り、運よく全ての大学院から合格をもらった。しかし、今度はお金の問題があった。俺は親からの援助を全く受けておらず、アメリカでも稼ぎは少なかった。

話は少し逸れるが、日本で「アメリカのマクドナルドで働くつもりで勉強してきた」が、労働許可証がないため、どこも働けなかった。そこで、俺は色々模索し、古着を日本に送る仕事を始めた。

街のスリフトショップ(近隣の住民が不要な服や家具を無償で店に持ち込み、店がそれを販売して収益を上げるシステム)に行き、安く古着を仕入れた。一応、日本のファッションの流行は、友人に手紙を書いてリサーチしていた。ちょうど大阪のアメリカ村ができて数年、多くの店がアメリカの古着を求めていた時代だった。

さらに、スリフトショップの店員が「ここで買うよりもっと安く買える場所がある」と教えてくれた。そこに向かうと、ただのガラクタが置いてある場所だったが、段ボール1箱20ドルで、何が入っているかわからない状態だった。それを4箱ほど買って帰り、家の裏庭で開封すると、匂いはひどいし、何があるかも分からなかった。しかし、1箱に約20枚程度、日本で好まれそうな服が入っていた。

俺はそれらを洗濯し、シミを綺麗にして日本に送り、収益を上げた。当時は全てがのんびりしており、入金も日本の口座にしかできなかったため、この部分だけ親父に頼んだ。親父は俺が何をしているのか分からず、ある日電話で「お前、ドラッグを日本に送ってるんじゃないだろうな?」と疑われた。当時、1ドル220円の時代で、俺の口座には毎月平均40万円ほど入っていた。

しかし、それをドルに換えて必要経費を差し引くと、手元には1500~1800ドル程度しか残らず、毎月ギリギリの生活をしていた。ただ、大学院に行くための最低限の資金はなんとか確保できていた。

しかし、この資金では1セメスターしか持たない。当時合格をもらった大学院は、UCLA、UTEP(テキサス大学エルパソ校)、Kentucky、Wyoming だった。

UCLAは授業料が高額でアパートも無理。UTEPは英語ではなくスペイン語が主流で、砂嵐もひどい。Kentucky大学は訛りがきつくて厳しい。そして最後のWyoming大学が俺にとってベストマッチだった。授業料が比較的安く、「1年はいけるだろう」と考え、Wyomingに行くことにした。

13. アメリカでの挑戦と成長

1982年、ワイオミング大学の大学院に入学し、運動生理学を学ぶことになった。しかし、アメリカでの生活は思いがけない問題の連続だった。例えば、気温がすべて華氏で表示されており、摂氏で慣れ親しんできた自分には全く理解できず、毎回とんでもない目に遭うことになった。

ワイオミング大学に到着するなり、「誰かガールフレンドを紹介してくれ!」と周囲に頼んだ。すると、サポートに来ていた日本人学生たちは驚き、「こんな人、初めてだ」と距離を置かれてしまい、それ以降、誰も手伝ってくれなくなった。しかし、そのおかげで英語力は飛躍的に向上し、自分でも驚くほどの成長を遂げることができた。

最も驚いたのは、寮生活でのルームメイトの発言だった。「今日、ガールフレンドが来て、一緒にベッドで寝るけど、気にしないでね」。言われなくても気にしないが、やっぱり気になる。こんな出来事が度々あり、「アメリカって何なんだ?」と思いながらの生活が続いた。

14. 学業と工夫

授業が始まると、ついていくのに必死だった。先生の話すスピードが速すぎて、ノートを取る余裕すらない。そこで、ある妙案を思いついた。クラスの勉強ができそうな学生にカーボンペーパーと白紙を渡し、授業終了後にそのノートを回収することにした。しかし、皆の字が汚く、外国人の自分には解読が困難だった。

そこで、大学のタイピングクラスの女子学生に頼み、ノートを清書してもらうことにした。すると、驚くほど素晴らしいノートが出来上がり、試験勉強に大いに役立った。さらに、このノートを試験前に販売し、お小遣い稼ぎをするようになった。このアイデアが評判を呼び、次第に学内で有名になっていった。

大学院時代のエピソードは尽きないが、ここでは割愛することにしよう。

15. 就職活動と運命の出会い

1984年5月に大学院を卒業したものの、なかなか仕事が見つからなかった。そこで、元カノのいるコロラド州へ移住し、ボルダーで職を探すことにした。当時のボルダーは、今では日本の陸上選手が合宿で利用するほど有名な場所だが、当時はまだ普通の町で、日本人アスリートは自分だけだった。

仕事を探すものの簡単には見つからず、時間だけが無駄に過ぎていった。そんなある日、新聞で精神病院のアシスタント募集の記事を見つけ、すぐにアポイントメントを取り、翌日に面接を受けられるところまでこぎつけた。

16. 運命の出会いと新たな挑戦

しかし、その夜、アルバイト先のレストランで運命的な出会いを果たす。そこにいたのは、1972年ミュンヘン五輪の金メダリスト、フランク・ショーターだった。話をするうちに、彼が「君は仕事を何をしたいんだ?」と聞いてきたので、精神病院のアシスタントに応募したことを伝えた。すると、彼は「君には向いていない。理学療法の資格があるなら、友人に連絡してあげる」と、その場でレストランの電話を使い、友人に電話をかけてくれた。

翌朝、指定された場所で面接を受けると、その場で即決。翌日から新しい仕事が始まることになった。まさに人生が大きく動き出す瞬間だった。

17. 理学療法アシスタントとしての日々

最初の仕事はアシスタント、つまり雑用が中心だった。しかし、それでも学ぶことは多く、すごく充実した日々を送り始めた。朝は6時から仕事が始まり、6時30分までに患者の受け入れ準備を整え、部屋の掃除などをこなす。最初は単調な作業かと思っていたが、これが意外にも新鮮で、毎日が有意義に感じられた。

仕事にはすぐに慣れたが、午後の時間が手持ち無沙汰になり、健康維持のために運動をしようと考えた。そして、コロラド大学の室内競技場に通うことに決め、仕事が終わると自転車で大学へ向かう日々が始まった。

18. 突然のコーチ就任

ある日、競技場でトレーニングをしていると、大学の陸上部監督が声をかけてきた。

「君、コーチングの経験はあるか?もしよければ、やってみないか?」

いきなりの申し出に戸惑ったが、基本的に何でも挑戦するタイプの自分は、躊躇なく「やります!」と答えた。監督も「じゃあ、9月にここで会いましょう」とあっさり約束し、その場を去っていった。

(半分、本当かよ?)と思いながらも、月日は流れ、9月の新学期を迎えた。陸上部の部屋を訪ねると、そこにいたのは前回の監督とは違う人物だった。

「何かご用ですか?」

「以前、監督とコーチとして働く約束をしたので、戻ってきました」

「それは前の監督ですね。私はこの9月から新しく就任した監督です」

(えー!前の監督クビだったのかよ!?)

せっかくのチャンスが消えたと思い、帰ろうとしたその時、新しい監督がこう言った。

「君はコーチングに興味があるのか?じゃあ、やってみるか?」

まさかの展開に驚いたが、アメリカの大学陸上はこんなに簡単に決まるものなのか?そう思いながらも、経験のない自分がコーチとして働くことになった。

19. 新たな生活のスタート

自分と選手たちの年齢差はたったの6歳。これはなかなか大変な状況だった。監督との話し合いの翌週から、毎日午後2時から練習がスタート。理学療法の仕事は午後1時半までだったので、そこから自転車で30分かけて大学へ向かうという生活が始まった。

ここでもまた、フランク・ショーターの力を借りることになった。彼は自分がどこで働いているのか、その経緯などを大学に説明し、保証人的な役割を果たしてくれた。やはり、有名人の影響力はすごい。

大学の練習など はっきり行って 生まれて初めてみるものもあおおく 選手に対して はったりを言いながらなんとか チームを統制とりながら コーチングを進めて行った。

過去8年間リーグ最下位に低迷し、昨年度は総合得点わずか28点という悔しい成績だったコロラド大学陸上部。しかし、私の孤軍奮闘が功を奏し、コーチ就任初年度でリーグ8校中4位へと躍進を遂げた。特に私が指導する短距離種目だけで、昨年の総合得点を超える成果を上げ、その結果、私はその年の「ベストコーチ」の称号を獲得した。

また、理学療法の仕事も順調に進んでいた。話は前後するが、大学のコーチに就任して2か月目に、人生の大きな転機が訪れた。

それは、理学療法士として働いていたときのことだ。アシスタントから正理学療法士へと昇級し、その際に担当したのが、一人の高校生の女の子だった。彼女の治癒促進を任された私は、最善を尽くした結果、彼女は予定されていた入院期間のわずか3分の1の時間で退院することができた。病院のスタッフや私の同僚はもちろん、最も喜んだのは彼女の両親だった。そして彼女は、無事にシカゴの実家へと帰っていった。

それから2か月ほど経ったある日、突然、病院の院長先生に呼び出された。開口一番、「明日朝8時にデンバーの移民局へ出頭するように」と告げられた。院長の表情からして、ただ事ではないと直感した。しかし、それが命令であり、しかも移民局となれば、行かざるを得ない。

翌朝、意を決して移民局へ向かった。入り口の外には、多くの不法労働者のような人々が屯しており、不安な気持ちが募る。開門時間の8時になると、係官が現れ、開口一番で私の名前を呼んだ。そして何も説明されないまま中へと案内された。

財布とパスポートを手に握りしめ、指示に従って進むと、入口で身長を測る白い横線の前に立たされ、犯人のように名前を書かれた紙を持たされて写真を撮られた。そして次に通された部屋では、椅子に座らされ、すべてが命令口調だった──。

椅子に腰掛けると、係官から「パスポートを提示しろ」と命じられた。言われるがままに差し出すと、係官はパスポートの中身を確認しながら、手元の書類と照らし合わせている。そして、学生ビザのページを開くと、持っていたスタンプを無造作に押した。

そのスタンプには── VOID

「無効」── その二文字が目に飛び込んできた瞬間、頭の中が真っ白になった。

何……? ええーー!? そんな動揺が一気に押し寄せる。そして次の瞬間、絶望が訪れた。

ああ、終わった。これで日本帰国だ……。

覚悟を決めかけたその時、係官がふとパスポートの別のページをめくった。すると、急に表情が変わり、なんと笑顔になったのだ。そして、別のスタンプを押した

Temporary Legal Alien

一時的合法滞在者。

その文字を目にした瞬間、混乱と安堵が入り混じった感情が押し寄せた。

「……これは?」思わず問いかけると、係官はニヤリと笑い、「お前はもう学生じゃない。これからは正式に働けるぞ」と告げた。

まさかの展開だった。さっきまで絶望の淵にいたのに、今度は希望の光が見えてきた。

しかし、なぜこんなことが起こったのか、まったく理解できなかった。恐る恐る係官に尋ねると、彼は淡々と答えた。

「君の病院長と、もう一人の人物がアメリカ移民局に掛け合い、早急に永住権を発行するよう強く働きかけた。その結果、異例のスピードで処理が進み、わずか2ヶ月半で認可が下りたんだ。」

―― 2ヶ月半!?

通常なら何年もかかるはずの手続きが、そんな短期間で完了したという事実に、驚きと戸惑いを隠せなかった。いったい誰がそこまで動いてくれたのか? そして、なぜ……?

狐につままれたような気持ちのまま、帰路につこうとしたその瞬間、係官が俺を呼び止めた。

「待て、まだ申請費用が払われてないぞ。80ドルのチェックを置いてけ。

え……? 一瞬、何を言われたのか理解できず、思わず「えーっ」と声が漏れた。しかし、逆らうわけにもいかず、黙って80ドルを支払い、ようやく外に出た。

バス停に向かう道すがら、頭は真っ白だった。次々と襲いかかる出来事に、まだ現実を受け止めきれない。

しかし、ふと気づいた。

80ドルの意味。

これって、もしかすると……ある種の優しさだったのか?

そして、バスで病院に戻ると、入口にはたくさんの看護師たち、そして今回の張本人である院長先生が待ち構えていた。

「えっ……何なんこれ?」

驚いて立ち尽くしていると、次の瞬間、みんなが一斉に拍手をしながら笑顔で祝福してくれた。

「おめでとう!!」

まったく状況が飲み込めないまま、直属のボスに真意を確かめると、彼はニヤリと笑って言った。

「実はな……みんな知ってたんだよ。

―― え?

「君に余計な心配をさせないように、ずっと内緒にしてたんだ。だから2ヶ月間、みんなで協力して君を"騙して"たってわけさ。」

あーーー……。

全身の力が抜けた。驚きと感謝が入り混じる中、ようやくすべてがつながった。これは病院のみんなが、自分のために仕組んでくれた、最高のサプライズだったのだ。

この実情を探ってみると、すべての発端はあの高校生の治療だった。

彼女の両親は大手の病院を経営する人物であり、娘の驚異的な回復に深く感謝していた。そこで「何かお礼をしたい」と考え、私が勤める病院の院長に相談したところ、院長はこう答えたらしい。

「英司は永住権が欲しい。」

すると、彼女の両親は「それなら力になろう」と、政界の上層部と接触し、移民局に強く働きかけてくれたのだ。その結果、異例のスピードで永住権が認可された。

しかし、それだけでは面白くない。どうせなら驚かせようと、病院のスタッフ全員がグルになり、何も知らない私を巻き込んで、この壮大なドッキリを仕掛けたのだった。

すべてを聞いた瞬間、思わず**「なんだそれーーー!!」**と叫んでしまった。こんな素晴らしいサプライズは嬉しいものですが、それまでやく4時間は地獄をみていた。

それから、人生はもっと華やかになると思い、一軒家に引っ越した。だが、現実はそう甘くなく、家賃が思った以上に厳しかった。そこでルームメイトを募集すると、すぐに女性から応募があった。

ただ、彼女には一つ大きな条件があった。

「彼氏はいる。でも、一人では眠れない。だから、一緒に寝てほしい。ただし、手は出さないでね。」

……正直、そんな変わった条件での入居だったが、軽い気持ちで引き受けることにした。そして、彼女は俺の家に住むことになった。

だが、すぐに問題が発覚する。

彼女は本当に一人で眠れないらしく、「だから、私、あなたのベッドで寝るね」と、当たり前のように言い出したのだ。

「……え? どういうこと?」と混乱する俺。

そして迎えた初めての夜、彼女は自分の枕を持って俺の部屋にやって来た。

どうする? 横に女性が寝ている。手を出すな。(いや、そもそも好みではないから、そんな気にはならない。)

でも、横に女性がいるという事実が妙に落ち着かない。

もし魔が差したら、どうする……?

そこで妙案を思いついた。

俺はベッドのシーツの真ん中を糸で縫い、**「侵入禁止ライン」**を作ることにしたのだ。

こうして、俺と彼女の間には明確な境界線ができた。

これなら、なんとか自分の寝る場所を確保できる——はずだ。

そんなことをしているうちに、俺にも彼女ができた。

しかし——

家に連れてくるたびに、すべてが壊れる。

それもそのはず。

ルームメイトが俺のベッドルームに、まるで自分の部屋のように出入りするからだ。

もう、ほとんど諦めて生活していた。

俺的には、もはや彼女とほとんど同棲状態——。

彼女は車を持っているが、俺は持っていない。

しかし、彼女の運転は下手で、俺はそれなりにうまくこなせる。

さらに、彼女の父親はフォードに勤めているため、半年ごとに新車が送られてくる。

お互いにないものを補い合うような関係だった。

そんな生活は、意外とうまく回っていた——。

そんな俺たちの姿を見れば、周りは当然、結婚していると思うだろう。

しかし、俺の気持ちは複雑だった。

なんだかんだで2年が過ぎ、その間に大学でのコーチングも、理学療法の仕事も、レストランの仕事もうまく進んでいた。

だけど、ある日——ふと気づいた。

心の奥底に、すべてに疲れ果てた自分がいることに。

2年がすぎた時 ルームメイトは 彼女の彼氏が博士号をとったので サンフランシスコに移動するねって 突然のことだったがいた仕方ない

そして彼女が出て行った後の俺の家は 非常に寂しいものだった